Talk About 連載第3回 【上海市舞蹈学校時代2〜上海バレエ団時代】
   
  大変長らくお待たせ致しました。
連載第3回目は、上海舞蹈学校時代後半〜上海バレエ団を経て日本に来るまでの黄凱をふりかえってみたいと思います。

 

 

 

  91年
 
 

14歳。バレエ学校3年生の時。
上級生が上海国際芸術祭に参加した際、
人数が足りなくて下級生から3、4人選ばれて出演した時のものです。 
何度か舞台は経験していたので、特に緊張することもなく、
振りをこなしていたような気がします。

 

  93年
 
 

16歳。バレエ学校5年生の時。
こちらも芸術祭。出演した後輩達と一緒に。
「バヤデール」を踊りました。
写真には写っていませんが、
パートナーは現在スターダンサーズバレエ団在籍の福島昌美さん(当時留学生)でした。
 

 

  96年
 
 

上の写真は上海のお店にて。
熊本バレエ研究所の皆さんが上海舞踏学校にレッスンを 受けに来た時のもの。
中央に福島さんもいます。
下の写真は熊本にて。熊本バレエ劇場のくるみ割り人形に出演した時、劇場の前で伴先生と。
熊本では今でも毎年舞台に立っています。伴先生をはじめ皆さん僕が小さ な頃からずっと見守っていてくれています。第2の故郷のようで、熊本を訪れるのは いつも楽しみです。
 

 

  96年上海舞蹈学校卒業公演
  ■海賊 梁菲(現香港バレエ団プリマ)と
 
 


 

  ■エスメラルダ 范暁楓(現上海バレエ団プリマ)と
 
 

 

上海舞踏学校卒業公演で、梁菲(現香港バレエ団プリマ)と「海賊」を、
范暁楓(現上海バレエ団プリマ)と「エスメラルダ」を踊りました。
范暁楓とは、学校時代ずっとパートナーとして踊っていました。
どちらかというと「エスメラルダ」の方がとても難しくて大変でしたね。
3ヶ月間みっちり練習を重ねました。
本番では両作品とも気持ちよく踊る事が出来ました。
両親、親戚などたくさんの人が観に来てくれました。
両親からは
「これからがスタートだから、今まで勉強してきた事を大切に、益々頑張りなさい。」
と言われました。
 

 

 

 

すべて卒業公演終了後。一番下は凌校長先生。
学校時代前半、寮生活だった事もあって、家族より長い時を一緒に過ごし、
共に辛い(?)稽古を乗り越えてきました。もちろん楽しい思い出もいっぱい。
みんな本当に仲が良かった。
卒業後は上海バレエ団に入団が決まっていた人、大学に進学する人、
まったく別の仕事に就く人、それぞれの道が待っていました。
僕は在学中から上海バレエ団に入団する事が決まっていたので、
そのまま「踊る」道を歩みました。

 

  96年 上海バレエ団 オーストラリア公演
 
 

上海バレエ団のツアーで1ヶ月オーストラリアに行った時のもの。
演目は「白毛女」 でした。
最後の1週間のオフは、バレエ団の皆といろんな所へ行きました。
特に海が きれいで印象に残っています。

バレエ団に入って、「仕事」として踊ること。
常に向上していこうとする意欲の反面、
同じ作品、同じ踊り、単調な生活のように思えてきて・・・
自分で選んだ道とはいえ、このまま続けていても・・・と不安に思ったりもしました。

 

 

  97年 四大バレエ団競演 レ・シルフィード
 
 

 

バレエ協議会四大バレエ公演で東京シティバレエ団の「レ シルフィード」に出演し ました。
熊本バレエ劇場出演の時に振り付けに来ていた石井清子先生にお声を掛けて頂き、
初めて東京で踊りました。
本番2週間位前に来日してのリハーサル、この時は まだ日本語もわかりません。
「大丈夫」という言葉は覚え、
清子先生の「再来(も う一度)」と僕の「大丈夫」ばかりが稽古場に響いていたような・・(笑)
パート ナーは安達悦子さん、関本美奈さん。

熊本、大阪、東京と何度か来日して、日本に興味を持つようになり
来日する度日本が好きになっていました。
 

 

  98年
 
 

石井先生からの薦めもあり、日本国文化庁海外芸術家招聘研修生として
東京シティバレエ団で7ヶ月間研修しました。
「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「創作」など、いろいろな作品を踊りました。
この写真は、研修期間最後の舞台、
98年3月、東京シティバレエ団「白鳥の湖」(新国立劇場にて)
初めて全幕で王子を踊りました。
振り付けの石田種生先生に丁寧に指導して頂きました。
今思えば、振りも表現も与えられたものをこなすのに精一杯でした。
先日、この時のビデオを見返して、
自分を見て、「つまらない踊り」と思ってしまったくらい・・・
バレエをやる上での環境の違いに戸惑いを感じる事もありましたが、
踊る事が好きで、心からバレエが好きな人がたくさんいて、
それはとても素敵なことだなと感じました。

いろいろな作品を踊れるチャンスのある日本でもっと踊りたい。
という気持ちが強くなり始めたのもこの頃でした。

 

  99年上海 鵲橋(ヤオウェイ ローザンヌゴールドメダル受賞者と)
 
 

日本での研修を終え、上海に帰国後すぐに鈴木稔さん振り付けによる作品「鵲橋」を踊りました。
慣れた環境に戻り、のびのび踊る事が出来ました。

しかし、やはり僕は日本でもっといろいろな作品を踊って、
いろいろな事を吸収したいと強く思い、すぐに日本に行く準備を始めていたのでした。

 

 

  伴 征子先生から当時の黄凱についてコメントを頂戴致しました。
 

 

熊本バレエ研究所研究生の一人である堀内麻里の上海市舞蹈学校留学3年目の1991年1月、やっと私の表敬訪問が実現した。
凌桂明校長の案内で授業中の各教室を見学。 どの教室も選び抜かれた学生のレッスン風景にため息が出た。 中でも男の子、女の子10組ほどで“タランテラ”の振付が行われていた教室にはすっかり魅せられてしまった。 スラリと伸びた肢体。タンブリンを手にした可愛いい笑顔の子どもたち。訓練の行き届いた動き…。いわば将来を期待された金の卵というべきか、初めて目にする光景はまぶしかった。
その中の一人の少年に目が留まった。彼はほかの生徒たちよりお兄さん格にあたるのか踊りもしっかりしていて品格も風格も備えており、私はすぐにその少年のファンになった。 その彼はハンサムで大学時代の恩師、游教授によく似ており、勝手に“游先生”と名付けた。
翌1992年くるみ割り人形誕生100年を祝うと題した「くるみ割り人形(祝典プロローグつき)公演」に上海市芭蕾舞団プリンシパル楊新華氏と上海市舞蹈学校の4人の男子学生を熊本に招聘。 “游先生”こと黄凱少年もメンバーの一人として初来日となる。
その後1995年、96年、97年、98年と、熊本の舞台に迎えるために上海から招聘している。
1999年文化庁の研修員として来日し、東京シティバレエ団において研修。
以来日本での活躍ぶりは皆様良くご承知のとおりである。
10年以上も彼の舞台(中でも「くるみ割り人形」)に声援を送り成長を見守った熊本の人たちは、現在では折々に変貌を続ける黄凱の真の魅力を堪能している。 そして黄凱の姿を見て「栴檀は双葉より芳し」という言葉をいつも思い浮かべる私である。

熊本バレエ研究所代表
熊本バレエ劇場総監督
伴 征子

 


お忙しい中にも関わらず、素敵なエピソードをご寄稿下さりありがとうございました。

   
  ■編集後記
 

 

少年から、青年へ・・・そしてダンサーとして成長していく黄凱。
どこかあどけなさの残る頃にも、
すでにダンスール・ノーブルとしての気品が感じられ
歳を重ねるごとに、その繊細さに凛とした力強さも
感じられるように成長していく彼の姿が
写真からも伝わってきます。

上海でその才能を開花させ、ダンサーとしての一歩を踏み出す…
そして、
それまでの数々の善き出会いを通じて育まれた絆と
自らの更なる可能性を追い求める心は
彼を 日本へ、そして今へと繋げてくれたのですね。

東京シティバレエ団のプリンシパルとして
また、様々な舞台で新たな世界を切り開き続ける黄凱
これからもきっと
驚きと感動に満ちた進化で私たちを魅了してくれるものと思います。

 

 

 

▲Talk About Top